第21回 徳川美賀子
とくがわみかこ(1834-1894) 江戸時代最後の将軍徳川慶喜の正室
華やかな立場よりも激動の時代を静かに生きることを選択した最後の将軍の正室
2003 年の今年は江戸幕府の開府 400年ということで、東京では記念イベントが数多く開かれることになっている。江戸時代が大好きな私としては、参加したいイベントや観に行きたい名所は山ほどあって、嬉しいような、ちょっぴり寂しいような(まだ自由気ままな身になれず……)。
しかしながら、インターネットであらゆるものを検索し、買い物も出来るようになった現代、家に居ながらにしても楽しめるのは幸い。この記念行事を機に各サイトも開設されており、なかなか時間の都合がつかない私でも、そこそこ気分を満喫できるのだから、ありがたいもの。
そこで、今年最初の星樹館は、江戸にちなんだ人ということで、江戸時代の最後の将軍となった徳川(一橋)慶喜の正室、美賀子。
美賀子は初名は延、実名は省子といい、今出川公久の娘である。後に、一条忠香の養女となり、1855年に徳川慶喜と結婚することになる。一条には実の娘千代姫がいたが、彼女は天然痘に罹り、醜い容貌となってしまったため、その千代姫の代わりとなったのだ。美賀子は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげな京人形そのままの美しく艶やかな娘だったと言う。
しかし、甘い蜜月もわずかで、井伊直弼が13代将軍家定の意思によって、1858年に大老に就任すると暗く重苦しい日々が続くことになる。当時、夫である慶喜は一橋家を継いでいたのだが、父徳川斉昭を筆頭に大名達の間では次期将軍にとの声が高かった。その一方で、将軍筋は斉昭とは意見を異にしており、実子のいない家定の跡を継ぐものは誰か、その後継争いが注目されていた。
折りしも1854年にペリーが来航して以来、目まぐるしい変化の中、開国条約の調印問題もある。直弼の決断は、攘夷派の斉昭が反発するであろう日米修好通称条約の調印であった。同月に14代将軍は紀州藩主の徳川慶福(家茂)と決定する。慶喜は後継争いで敗北に終わった。
それは、ある意味、美賀子にとっては幸いなことだったのかもしれない。既に結婚した時には10人近くの側室を持っていた慶喜である。彼が将軍職につけば、美賀子は大奥に入らなくてはならず、その気苦労は察しがつく。何度か身ごもったにもかかわらず、結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは、「千代姫の呪い」という噂まで立てられていたというのだ。
慶喜は、14代将軍家茂の死によって、66年に将軍職に就任したが、美賀子は大奥入りせずに、そのまま明治を迎え、江戸(東京)を離れて、静岡の紺野町に移り住んだ。そして、94年に乳癌でこの世を去ることになるのだ。墓は谷中にある。歴代将軍で芝増上寺、または上野寛永寺の徳川霊廟に葬られなかったのは、慶喜と美賀子夫婦のみであった。
幕末期になると女性の活躍も多く見られるようになって来て、その様子も残されているので、現代の私達も彼女達のことを知ることが出来るのだが、最後の将軍の妻であったにもかかわらず、美賀子はあまり知られていない女性の一人だと思う。14代将軍家茂夫人である和宮が有名すぎるせいだろうか? その人生の悲劇や家茂との夫婦愛が、激動の時代に翻弄された若い二人の儚い幸せと映るせいなのだろうか?
和宮は書籍やドラマなどで広く知られるところとなった。同じように運命に流されたであろう美賀子と和宮。美賀子に私が惹かれるのは、彼女の少しだけ知られている生き方に、控えめだが芯の強い部分が感じられるせいなのかもしれない。(2003/3/24)
2018/10/24追記:徳川慶喜を描いた作品に1998年のNHKの大河ドラマがある。慶喜を本木雅弘が演じ妻の美賀を石田ひかりが演じた。私は観ていないのだが、どうだったんだろうなあ?と思う。大奥入りしていない正室なので、映画やドラマの脇役としてもあまり登場シーンはなさそうである。でもまた、それもいろんなイメージが膨らんで脚色もでき、ヒロインとして面白い時代劇になりそうな気もするのだが、いかがであろうか?
徳川慶喜(1837-1913)
尊皇攘夷論者水戸藩主徳川斉昭の第七子。11歳で一橋家を相続し、1866年12月に第15代将軍に就任。同月、孝明天皇が崩御。慶喜は、板倉勝静、永井尚志、小栗忠順らをブレーンに幕政改革を行うが、挽回できず、67年に大政奉還する。彼はフランス公使ロッシュの進言を大幅に取り入れ、外国からの軍事援助を約していることもあり、社会的にもある意味では画期的な改革に着手している。だが、安政の大獄の後、謹慎を命じられた時には、真夏にもかかわらず、沐浴をせず、月代も剃らず、雨戸を閉めていたほど意地っ張りなところや、67年に大坂城から脱出する際に家臣を置き去りにして愛妾を連れ帰ったなど(英雄色を好むの諺どおりなのか?)というエピソードもあり、政治家としての彼は有能だったのかもしれないが、夫としての彼はどうだったのか、と考えると美賀子の苦労がうかがい知れる。その彼も、美賀子の三周忌には、「なき人を思ひぞいづるもろともに聞きし昔の山のほととぎず」と彼女を偲ぶ和歌を詠み、1913年に亡くなった。