20センチュリー・ウーマン


1920年代生まれの母親と1960年代生まれの息子。シングルマザーの母親ドロシアは設計の仕事をして息子ジェイミーを育ててきたが、いかにも時代の先端を行く女性風。多分この時代にはそうした女性は少なからずいたのだろうと思う。それも時代の流れだったのかもしれないし、周囲の保守的な目に対しての必死の生き方でもあったかもしれない。

あの当時では40歳で出産というのは超高齢出産であり、かなりのリスクもあっただろうからドロシアの覚悟も並大抵ではないだろうし、離婚したこともいくらアメリカでも今ほど理解はないはず。その辺の理由は多くは語られない。ただ思春君を迎えた息子と更年期を迎えているだろう母親の困惑や誤解は想像できる。

けれど、その困りごとを身近な二人の女性に相談して教育係を頼むことには私は理解に悩む。その一人はどちらかというと芸術系に類する写真家のアビー。ドロシアとは相容れない考えであろうことは察しがつく。もう一人のジュリーはジェイミーよりは年上とは言え、一緒に遊んできた幼馴染みであり、同じ思春期であることに変わりはない。

どうして二人に頼むんだろう? 私にはトンチンカンとしか思えない母親の行動。今ジェイミーに必要なのは父親なんじゃないのか? かと言って、そばにいる元ヒッピーのウィリアムが適役とも思えない。

ドロシアの戸惑いは息子を持つ母親が通る道でもあるのだろうけど、その役割を別の若い女性に任せるとはある意味、母親放棄にも見える。正直きっとどんな母親だって息子の思春期には悩むし苦しむと思う。自分は経験していないこと、全くわからないことを外側から手助けするのだ。何をどうすればいいのか、誰かに経験を聞くことは出来てもそのまま自分の息子に当てはめることは出来ない。

だから誰かに頼む? それでいいのか? 残念だが、私には「自分には仕事があるから」と言って逃げているようにしか見えなかった。「母」ではありたいけど、その責任は果たしたくない無責任な人。まあ、こういう人はおそらくどの時代にも男女関係なく一定数いる。例えば町内会の係や学校のPTA役員だってそうだ。介護があるのだのフルタイムで働いているだの、と言ってその理由は誰だって同じで、その人が専業主婦(夫も含め)だろうと片親であろうと関係ない。でも、そうしたものを理由に「出来ない」と大手を振って宣言する。この場面には私も何度も経験した。

ドロシアはそれに似ている。「私は片親でバリバリのキャリアウーマンでも男社会で生きていくのは大変なの。男の子の思春期の成長に付き合う時間はないのよ」言っているよう。外で働いていようが、家事をしている主婦だろうが大変なのは、いつの時代も同じだし、多分母子家庭だってほとんど同じだろう。もちろん、今の方が保育園等の施設に関しては利用しやすいかもしれないが。

ネットで検索した所、この作品の評価はなかなか高評価であった。知らない時代の話でもあるし、まだ保守的な時代を自分の自由意志で生きる女性たちに囲まれた少年の成長物語、となるとワクワク感もあるかもしれない。各女性を演じる女優陣も魅力的だ(毎度と言うと毎度だが、アネット・ベニングは美しい女優だとは思うけど、どうも私とは相性が悪い。何作か見ているが、見る作品どれも好きになれない。当サイトではエド・ハリスと共演の「ファイス・オブ・ラブ」を紹介)。

でも残念ながら、私には結局、何が言いたかったのかよくわからなかった。かなり独特な女性たちに囲まれた生活をしたジェイミーは、その後どんな青年になったのでろうか、そんなことが気になったラストであった。私ならまあ、ジェイミーを彼氏にしたいとは思わないけどね。(2024/07/16)

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