明日の記憶

明日の記憶 2005年 日本作品
監督:堤幸彦  原作:荻原浩
出演:渡辺謙、樋口可南子、坂口憲二、吹石一恵、袴田吉彦、及川光博
香川照之、渡辺えり子、大滝秀治、田辺誠一、木梨憲武 、松村邦洋
原作:荻原浩


この映画はロードショー公開の際に観たので、感想を書いて早くUPしたいと思っていたのだが、何故だか上手く書けなくてのびのびになっていた。映画の内容が内容だけに「悲しすぎる」と思った観客もいたかと思うのだが、その一言だけで片付けられる内容ではないのではないか。介護のことを知れば知るほど、この映画は観る者に迫ってくる、そんな感じがする。

映画の内容は、重いし、悲しいし、切ないし、そして苦しい。50代で痴呆症にかかったら、どんな気持ちだろうか? 家族がそうなったら、どう思うだろうか。正直、想像できない。治る見込みのない病気と正面から向き合って生きていくということは、どんなにつらいことか、どんな言葉をもってしても表すができない。

バリバリ働くやり手の広告代理店の部長である夫。上司から期待されている彼は、仕事もできるし、クライアントからもウケはいいし、部下からも尊敬されている。庭付きの素敵な一戸建てに住み、専業主婦の妻と結婚を控えた娘(もちろん、婿となる男性も娘とお似合いの素敵な青年だ)、幸せを絵に描いたような家族。その彼を突然襲う物忘れ。それが若年性アルツハイマーだと診断される。

昨日まではすべてが充実し、満足していたはずの生活が一瞬にして崩れ去る。それは診断によって突き落とされた奈落の底であり、また、少しずつ失っていく記憶による現実の崩壊。彼のような優秀な会社員に訪れたこの現実は本当に本人にとってつらいと思う。すべてのことを自分で解決し、決断してきた人間にはこの上もない苦しみではないかと私は思うのだ。主人公の苦しみや悲しみを渡辺謙は全身で表現している。観ている方も時として目を背けたくなるほど、その姿は現実味を帯びて迫ってくる。

だが、一方で私は原作にはそれほど詳細に書かれてはいなかったという(友人から聞いた話です。私はまだ原作を読んでいません)妻の側からのこの現実が非常に興味深かった。おそらく、自分が現在、妻という立場であり、子を持つ母という立場であるからだろうと思う。専業主婦の妻は、子供の大事な時期にさえ家にいることができないほど忙しい夫に代わって家のことすべてをひとりで担ってきた。傍から見ると優秀な会社員の夫と結婚間近の年頃の娘を持つ幸せな主婦。だが、ある日を境に不幸のどん底。夫がどんな人間か知っている彼女にとって、彼のこの耐え難い現実をそばで見るのは、同じくらいつらいこと。

そして、長年の女友達が経営する陶芸の店で働かせて欲しいと頼んだときに言われた言葉。
「何故、今頃働くの? あなたに働けるの?」
この一言は周囲の気持ちを的確に表現している。有閑マダムのように生活してきたあなたが暇つぶしできるほど、仕事は楽じゃないのよ、と。
「働かなくちゃならないのよ。お金が必要なの」
だが、またこの妻の言葉も現実。若い店員に怒られながら、昔たしなんだ陶芸の経験を思い出し、必死に仕事を覚えようとする彼女の姿は切ない。

有閑マダムなんかじゃなかった彼女の生活は、学生時代の娘がトラブルに見舞われ、めちゃくちゃだった時にも仕事で何も気づかなかった夫に憤りを感じ、やりきれなさに包まれたこともあったのだ。それは自分の苦しみをぶつけた夫との喧嘩のシーンでも想像できる。そして、「それでも逃げ出したくなる現実と向き合って、ともに生きていこうと決意した」という彼女は不思議そうな顔の夫に「家族だから」と答える。

この映画は、若年性アルツハイマーを患った優秀な会社員の話であるけれど、同時に家族の、夫婦の話だと感じる瞬間だ。それは、あちこちのシーンに散りばめられている。失っていく記憶、現実と過去が交錯し、自分がどこにいるのか(時間的にも地理的にも)さえわからない。そして、二人が知り合った頃のことが現実のように思える夫。

ラスト近くで夫は若い頃、通ってきていた人里離れた山中に住むの陶芸家の窯を訪ねる。妻への贈り物のカップを焼くためだ。しかし、妻には何も言わずに出てきてしまったため、妻は夫を必死で探し、この場所にたどり着く。山を登る妻と降りてくる夫がばったりと出会ったとき、彼はもう妻を判断できずに初対面のように振舞った。妻の複雑な表情。でもそれは新たな決意も生んだ。新しく彼と共に生きていく決意。

実際、自分が同じ立場に立たされた時、こうなれるだろうか? と思う。有能な夫を知っていればいるほど、それを失った彼をそばで見るのはつらいことだろう。考えただけでも恐ろしくなる。それを乗り越えなければ共に生きることはできない。そこに見えてくるのはその人自身だ。家族のあり方を問えば、この映画を見終わっただけでは語れないが、自分自身に問いかけることはできるのではないか。現在の日本においては、アルツハイマー病は決して他人事ではなくなった。誰にでも、どの家族にもありうる話、とても身近な病気であり、自分に明日起こっても不思議ではない現実とも言えるのだ。

高齢の両親達を抱える私にとって、そしてこの映画の主人公達の年齢が近づいている私にとって本当に「映画だ」とは言い切れない気持ちが満ちてくる。そして、現代の日本の課題のひとつとも言える介護問題を問いかける映画でもあった。

さて、最後に、「明日の記憶」はやはり渡辺謙、樋口可南子の素晴らしさによるものが大きい映画だとも言えると思うが、脇の共演者達も本当に素晴らしかった。主人公の取引相手役の香川照之、部下の田辺誠一、袴田吉彦、医師役の及川光博、娘の婚約者役の坂口憲二、妻の友人役の渡辺えり子、老いた陶芸家の大滝秀治。どの役者もその役をきちんと演じているのが感じられる作品だったと思う。それもまた、映画でありながら、現実を考えさせるものへとつながったのではないだろうか。(2007/05/12)

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