2015年4月4日 人生の分岐点はどこにあるのか? 「だから荒野」と「流星ワゴン」
今年は年明けから放送スタートした「だから荒野」と「流星ワゴン」の2本の連続ドラマを観た。ここ1~2年で久々に国内ドラマを観たりする機会が増えたのだが、ジャニーズ系が出ている作品ばかりで、その点では今回は別だったかなあ。どちらも出演者が私には魅力的で週末は結構楽しみな3ヶ月間だった。
2つの作品のテーマが同じものであるとは言い難いのだが、両作品とも『家族』と『主人公の分岐点』が描かれていた作品ではないだろうか。「だから荒野」は桐野夏生、「流星ワゴン」は重松清原作と本のドラマ化。私は原作を読んでいない分、主人公やその背景に対する先入観はなく観ることが出来た。絶対に原作の方が面白く、ストーリーを堪能できるというのが私の持論。しかし、先に本を読んでいると登場人物に大きな思い入れがあったり、イメージが出来上がっていてそれがどうしても先行してしまうことが多々ある。今回はそれはゼロ。とにかくドラマを堪能することに徹して観ることが出来た。長くなりそうなので、それぞれで感想を。
「だから荒野」の朋美は、少しOLを経験した後、社内結婚の寿退社でずっと専業主婦をしてきた46歳。育児と家事で惰性の生活であることが見えつつも認められずにもやもやを抱えたままの自分をもてあまし気味。詳細は番組サイトへ。
朋美は自分の誕生日に言われた家族の心ない一言についに切れて家出を決行。途中で知り合った青年と老人の乗る車に同乗し長崎に向かうことに。後悔ややり直したい気持ち、どうすればいいかわからない不安でヤケなっている状態。朋美に共感する主婦は結構いるのではないかというのが、私の最初の感想。私も似ているかなあ、と思う。育児も家事も家族だけでなく第三者からも評価されない分、どこかで(あるいは自分で)「頑張ってるよね、頑張ったよね」の一言が欲しくなるもの。仕事をしていれば、何かの、どこかの小さな評価とかあったりするものだが、育児や家事はそれが見えにくい。そして一番ねぎらって欲しい相手、”家族からのねぎらい”はたいていないのだ。日常は”繰り返し”と”積み重ね”だから、終わりがない。その中で見失うもの、本当に無くしてしまうものとは何だろうか。
日常のすべてを投げ出して家出したい、そんな気持ちは誰も一度は抱く思いだろうと思う。現実にはドラマの朋美のようにいい人達に出会えて(途中で嫌なことや困ったこともあるが)、落ち着き場所(朋美の場合は長崎)を簡単にうまく見つけられるとは到底思えないが、多分繰り返しの日常の中で”立ち止まる”時や”振り返る”時、さらに”決断する”時は必要なはず。そして、居場所もない、必要とする人もいないと感じる時はきっと”何か”の、”誰か”の癒しも必要。自分の存在意義を確かめるためにも。
朋美は旅の途中で知り合った青年亀田や山岡老人に「癒された」と言い、二人は「朋美に癒された」と語る。それぞれがそれぞれに関わっている人達がいて、癒し癒されであるとするならば、みんな誰かを癒して誰かに癒されている。そう気付いた時にふと肩の力が抜けるのかなあ。家族でも見えないことはある。他人だからこそ見えることもある。当たり前のことに感謝できなくちゃ、刺々しいばかりになるもの、そうわかっていてもいつも笑顔でいるのは難しい。
あまのじゃくの私は”癒し”とか”絆”とかっていう言葉は本当は苦手なのだが、このドラマを観て思ったのは、みんな誰かの『元気の素』であり、同時に誰かの『元気の素』を貰ってるんだよなあ、ということ。人はひとりじゃないし、一人では生きていけないんだよなあ、と感じた瞬間であった。
さて、ドラマ進行中ずっと気になったのは、ヒロイン朋美は離婚するのかどうか、という点。美容室を経営する独身の親友とお互いがお互いを羨ましく思っていたことを語り合うシーンがあるが、これもまた誰しもが経験したことがある話。ラストで朋美は今すぐ離婚をする選択はしなかった。ただし、長崎に残ってもう少し自分のやりかけたことを続けてみたい、と夫に告げる。日常の家事をこなす妻であり母であるだけでなく、独立した人間として生きるために必要なこと、それを磨く選択。
時と共に変化する家族の形を考えれば当然の選択とも言える。朋美は自分自身でも「自分はいつも中途半端で、ま、いっか、で生きてきた。どうせ自分には何も出来ないしって」と言っていたが、翻って自分がこんなに潔くなれるかな、と思ってしまう。なかなか見応えのあるドラマだった。
その2の「流星ワゴン」へとつづく。